代表・白井伸幸からのご挨拶|楽観主義で60年「町の気のいい箱やさん」−福益工業所

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福益工業所
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    白井伸幸  皆さんこんにちは。「楽観主義で60年 町の気のいい箱やさん」有限会社福益工業所 (ゆうげんがいしゃ ふくます こうぎょうしょ) お客様係兼 代表取締役の白井伸幸(しらい のぶゆき)です。
    愛知県豊橋市で、13名のパート従業員と、協力していただいている9か所の、地元授産所の仲間と共に、足らぬ 足らぬは 工夫がたらぬ をモットーに、お客様の多様なご要望にお応えできるように、究極のローテク「手作業」を駆使し日夜、箱づくりに励んでおります。

    「箱や一筋」
    楽観主義で60年、町のきのいい箱やさん
    有限会社福益工業所(フクマスコウギョウショ)四代目社長、白井伸幸(しらい のぶゆき)です。

     弊社は、私の祖父 白井 尚(しらい たかし)より始まります。尚は、若い頃出生の地、愛知県の渥美で、味噌、醤油、酒類を扱う酒店を興したようですが、元来の酒好きがたたり、売り物の酒と、晩酌の酒の区別がなくなり2、3年で潰したそうです。その後、どの様ないきさつがあって、箱やを志したのか分かりません。

     尚は、戦前、戦中、豊橋市内の老舗の箱や「角丸堂」にて修行を積んでいました。しかし、次第に戦争が激しくなり昭和19年6月、アメリカ軍の空襲により豊橋の中心市街地は大被害を受け、自宅は言うに及ばず、角丸堂の工場、設備ともに灰燼と帰しました。

     終戦とともに元の主人角丸堂、佐藤善三(さとう ぜんぞう)氏(豊橋名産ヤマサちくわの創業一族)の元に戻り、一面の焼け野原に昼夜の別なく、バラックの工場を自分たちの手で建てることから始め、佐藤善三氏の絶大な協力を得て、昭和22年創業、そして23年2月、有限会社福益工業所に法人改組しました。

     その当時、豊橋及び東三河地方は甘藷(さつまいも)の産地で、それを求めて都会から大勢の人が買出し部隊としてこの地方に押し寄せました。その買出し部隊のお土産用に、甘藷を原料とした飴や菓子、ようかん、ゼリーを作る業者がたくさん開業しました。
    そして、販路が広がるにつれて、それを入れるための箱にもたいへんな需要があったようです。
    工場は連日の大忙し、明け方まで箱を作り、朝からリヤカーで一日がかりの配達、また、明け方まで箱作り・・・の毎日だったようです。
     しかし、尚は創業よりわずか7年、昭和30年7月、酒好きが過ぎたのか、舌癌のため他界してしまいます。
    その時の話を祖母あきの、より聞いたことがあります。それは、たった一言「モルヒネをもっと使ってあげたかった。」です。
    当時はモルヒネが高価だったのか、貴重品だったかは、分かりませんが、十分に痛み止めの麻薬が投与できず、尚は大変苦しんだようです。

     私の父、白井重利(しらい しげとし)は昭和8年の生まれで、当時は若干22歳ということもあり、尚と創業の苦労を共にした、母方の叔父 渡会忠二(わたらい ちゅうじ)が2代目社長に就任しました。
    その後は戦後の高度成長期の流れに乗りこの地方のお菓子や、ゼリー、ようかん、の特産物は全国に販路を広げ、豊橋は観光みやげ品の一大生産地へと成長していきました。そのお陰もあり当社の業績も順調に推移したようでうす。

     父重利はや商業高校の夜間部に通いながら家業を手伝いました。
    創業社長の長男とはいえ、早くに父を亡くし叔父が社長をしていましたので、何かと気がねもあり、幼い弟と二人の妹を育てなくてはならないと、かなり苦労したようです。
    当初は自転車やリヤカーでの配達が主でしたが、昭和30年代には三輪自動車が導入でき能率が飛躍的に良くなりました。
    私が見たわけではないので本当のことかどうかは分かりませんが、父から聞いた話ですと、当時の三輪自動車は性能が悪く、よくオーバーヒートしたようで、エンジンが冷めるまで、田んぼから「いなご」を取ってきてラジエターで、焼て食べ、空腹をしのいだ、とよく話していました。
    オーバーヒートは本当だと思いますが、「いなご」を焼いて食べたのは、眉唾ものだと思います。
     昭和40年〜60年代の弊社は、食品、メリヤス、玩具花火などの箱が主力でした。しかし、オイルショック、円高、などの時代の流れとともに、取引先の盛衰、淘汰のあおりを受け、弊社も厳しい時代もありましたが、そのつど何とか乗り越えて来ました。

     私、白井伸幸(しらい のぶゆき)は、父重利、母トミ子の長男として、昭和35年5月この世に生を受けました。
    中学生の時、好きだったドラマ「どてらいやつ」と重利の電気工作好きの影響で日本一の電機屋に成りたいと思い工業高校電気科卒業後、電気屋に就職しました。
    しかし、ドラマの様には上手くいかず、一年予で早くも夢破れ、家業を継ぐべく、昭和55年、福益工業所に就職しました。その当時は、主力のお得意様の菓子さんの廃業、お得意様の業態の変化、同業他社との競争激化等で、業績は最悪で大変な時に入社したものだと後悔もしました。

     しかし、そこは元来の楽観主義者です。何の根拠も無いまま、ただ、何とかなるさと毎日の仕事を、何となくこなしていました。そんな平凡な仕事に時間を費やしていたある日、同業者のIダンボールのI社長様からある仕事の誘いがありました。
    Iダンボールは、父重利以来、親子2代にわたり親しく付き合いのある会社です。それは忘れもしません、昭和63年10月、秋とは言え、肌寒い日でした。
    I社長様から、「福益さん、こんなの出来るかん?」と見本を見せられました。
    その見本を見てビックリしました。それは、段ボールで出来たミとフタの箱のようではあるのですが、段ボールの仕切りがミとフタの両方に入っていて、ミとフタを被せる事ができませんでした。
    私は「これ、なんに使うだん?」と質問しました。
    I社長は「自動車の部品が入るじゃん」と答えてくれましたが理解できず「ふーん、そうかん」としか言えませんでした。
    それは、今様に言うなれば、段ボール箱と組仕切りのハイブリッドと言えるものでした。
    仕事の手間を考えると、社内ですべてこなすには、相当な人手と場所が必要と思われましたが、弊社にはその余裕がありませんでした。
    断ろうかと一瞬思いましたが、その当時、恥ずかしい話ですが同業他社の安売りにあい、長年お取引があった大口のお得意様を取られてしまい内職さんが遊んでいました。
    そうだ、すべて社内でこなさず、内職さんで出来る所は内職さんにお願いし、出来ない作業だけを社内でこなそう。そうすれば、在庫もある程度内職さんに預かってもらえるし、工場のスペースも助かる、一石二鳥じゃやん。と考え引き受けることにしました。
    自動車部品の入る箱のやり始めのころは、数量もそれほどでもなく、内職さんも沢山あり、長年の経験で気よく仕事をしてもらうノウハウもあったので、順調にこなせました。
    ところが、ひとつの仕事をこなすと、今度はこの仕事、次はこの商品と、I社長から次々と仕事の依頼を受けました。しかも、新しい仕事は組み立てるのが益々複雑になり数量も増え、ボリュームもどんどん増して行きました。さあー困りました。一般家庭の内職さんにでは置き場に困る様になってきたのです。
    数量はともかく、6畳や8畳の部屋ではかさばって仕事になりません。
    どうしようと思っていたところへ、知人から、「知り合いのお子さんが あすか という授産所で毎日楽し、く大勢の仲間と作業をしているのだけれど、仕事が少なくて困っている」という話を聞きました。これだ、と思いました。
    そこから、授産所さんとのお付き合いが始まりました。
     年号も平成とかわり、授産所さんの多大なご協力により自動車部品箱の組立ての仕事は弊社の主力になり業績もだんだん回復して行きました。
    さあこれからと思っていた矢先の平成7年1月1日、父重利が突然他界しました。
    昭和63年6月、渡会忠二の引退を受け代表取締役に就任してわずか7年弱、享年62歳でした。
    祖父尚が創業より7年で死去、父重利も就任してから同じ7年で死去と偶然にも短すぎる、就任年数でした。

    自動車部品の仕事が順調になりだす数年前から、なぜか父重利とよく対立しました。
    私が、新しい仕事にばかり力を入れて、既存のお客様や仕事を疎かにしているように思えたのか、それとも、新しい事への拒絶反応だったのか、とにかくよく対立しました。
    しかし、突然吐血し、今後のことを何一つ相談することも出来ずに、入院後数時間で父を亡くすと、もつといろいろ話をしておけばよかった、もっと色々聞いておく事があったのにと、後悔の念にさいなまれました。

     あれから14年、私は、35歳で会社を引き継ぎ今年平成21年、49歳になります。父を亡くした時、これは第二の創業だと思い必死の思いで会社を引っ張って来ました。
    すでに、祖父尚や父重利の倍近くの年数を代表取締役として仕事をさせていただいております。
    これも先代たちの苦労の積み重ねと、お客様方々の厚いご愛顧があってのことと日々感謝しております。
    今では9か所の授産所とその大勢の仲間に協力していただきながら、究極のローテク「手仕事」を武器に、お客様のご要望に細かくお答えして行けるように、箱や業に邁進しております。
    しかし、昨年よりアメリカ発の金融危機の煽りを受け大きな痛手を受けました。これは自分に、「第三の創業を行え」という先代たちの声と思い新たな道を模索しております。